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大槌稲荷神社
(二渡神社)

祭神 稲 倉 魂 命    合祀神健御名方命   祭日 旧八月九日
                イナクラタマノミコト         タケミナカタノミコト
由 来
 大槌稲荷神社は二渡神社とも呼ばれ、その由来は最初大屋(安渡小国家屋号)で奉祀した場所は安渡寺沢地内大槌稲荷神社の笹原という処(現安渡三丁目地内)であったが、安渡村民の願意も厚く正保二年(1645)に波辻崎(現安渡三丁目水門付近、水天宮)に移したという。笹原鎮座の時代は笹原稲荷と呼ばれ大屋の氏神的存在であったが、波辻崎に移って波辻崎稲荷と称された頃は既に漁村の鎮守に任じたものであった。
その後、波辻崎は参詣に不便という理由から享保五年(1720)、前川氏・里館氏が発願者となり氏子が協力して現在地に移転することとなる。このおいなりさん二回の移転が二渡の神社名の根拠となる。
稲荷神は本来穀物の神でありその神体尊像も稲を肩にになった老翁の姿であって、二月初午を祭日とすることが普遍的に行われてきた。狐はその神使であり、萬能に通ずるといわれた狐は村民に畏敬され、田の神の神使と思われこれを尊信する風が稲荷信仰に随伴したものと考えられている。稲倉魂命を本体とする稲荷信仰は江戸時代になると単に農耕神のみでなく、収穫つまり収入の神として商業神的性格も持つようになり、ひいては漁村や漁港で漁の神としても祀られるようになった。
由 来

元文年中(1736〜)には二渡の神輿は四日町(現上町)、八日町(現本町)まで渡御していた。
安永八年(1779)九月、二渡神社の祭礼はこの頃は廿九日に行われ、元文以来両町まで神輿渡御するも、短日で廻りかねるので安渡限りにしたいと願出てこれを許された。文化九年(1812)になると南部藩主が神道支持を打ちだし、従来は神道派(小槌神社)と修験道(二渡神社)が両立していたのに、翌文化十年(1813)からは神道派以外の各社は神輿渡りの祭事を差止められ、二渡神社や町方の観音の祭礼も禁止の憂目に逢った。
また、これにまつわる話として先に述べた文化九年の藩令により、代官所を通じて二渡神社を当時の小槌明神別当に神社を掛持ちさせるとの通達があった。小槌明神別当は安渡の船頭達に二渡神社申受けの旨を伝えたところ神輿から戸障子の果てまで二渡の山から引き下げ、村中大騒ぎとなっている。
文献によれば文政三年(1820)「差留中の神輿渡御の祭事を、願出れば許すの回状あり」とあるので、1813年〜1820年までの七年間は二渡神社の祭礼は行われなかったことになる。

                          −町立図書館蔵「大槌町史」より抜粋−     


由 来

 平成23年3月11日の大震災 大津波の際には高台に鎮座していた為、難を逃れた。
有史以来、何度となく津波の被害を受けてきた安渡地区を守護する神社として、高台建立は必然的だったと思われる。
震災後約5ヶ月間、避難所として地域住民の臨時の生活拠点となる。


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