Home What's 虎舞
History
まつり Information
Contact
Contact

小鎚神社
 祭神 日本武尊    祭日 旧七月十九日  


由 来
 小槌神社の起源は大同年間新山盆地の明神平に土地の開拓者芳形某を祀ったことをその発祥としている。『御領分社堂』では天長六年(829)慈覚大師が廻国の折り、海辺の衆生が仏神の信仰なきため閉伊七社の明神を建立したと伝え、その一社が小槌大明神であるとし、『奥々風土記』にも同様の記載がある。この天長の頃の扁額の破損した「小槌祠」と刻まれたものが旧別当家として知られる臼沢部落の総本家臼沢家の土蔵から発見され、天長六年の銘があったといわれている。それが一回目の移転の場所、一ノ渡時代のことだと伝承されてきた。そしてこの遷座の場所も一ノ渡の地名で呼ばれている。また一説には承久二年(1220)十月十五日閉伊頼基が逝去の時、嫡子家朝に請い殉死した七将の一人太田嶋源吾忠速(タダチカ)を祀った一社松山明神が、後の小槌神社だとする文書も新しいものだが神社に保存されている。これが現上町にある古明神時代ともいうべきであろうか、一ノ渡から古明神に至る間の来歴は史料がなく不明である。この古明神から寛永六年(1629)九月十九日遷座したのが現在地の小槌神社であって、戦前その記念すべき日が例年の祭礼日となっていた。




由 来
小槌神社には平成九年に新造された明神神輿と観音神輿の二つがあり、新造以前の明神神輿は金崎・前川両家の寄進によるものである。観音神輿は無量山観音(現在大念寺境内に安置)附属したもので、大念寺にある「略由緒」及び元禄十年(1697)七月十七日堂宇建立の棟札に見る、観音堂造立の時に献納された神輿であろうが、施主が誰であるかは判明していない。江戸時代中頃には旧小槌村(町方)のお祭りといえば、寛永以後も小槌村の鎮守に任じた小槌神社の七月十九日と、観音の七月十七日の年二回があった。祭典には四日町と八日町から屋台(山車)を出すのが例で賑わったという。文化の頃は七月十七日と、無量山観音の七月十九日の祭礼は毎年格番(交互)に仲良く行われていた。
現在も祭礼の日には毎年その繰出し順序がかわっている。去年小槌神社の神輿が先に繰出せば、今年は観音の神輿が先になるといったようにである。これはこの頃の習慣をそのまま受継いだもので、昔はその祭礼の主体となる社の方に四カ村(四日町・八日町・大槌村・小槌村)より諸経費を出して賄ってきたものであった。

                         

−町立図書館蔵「大槌町史」より抜粋−


由 来
平成23年3月11日の大震災 大津波の際には道路際の鳥居の所まで津波が来たといい、直後の市街地の火災、後ろからは山林火災の火の手、まさに八方塞がりの状態から奇跡的に難を逃れた。
震災後の約5ヶ月間は安渡の稲荷神社同様、避難所として地域住民を支え続けた。
また、例年通りのまつりではなく「小鎚神社復興まつり」と題して、境内での神輿の繰り出し、郷土芸能の奉納など、小規模ながらいち早く祭典決行を打ち出した。



                                                            Page Top  


Copyright (C) 2005-2011 Shiroyama. All Rights Reserved